indenkun2の日記

日々のとりとめのない雑感を言語化

胃の噴門部っていう名前が具合が悪いときはより具合を悪くさせる気がする

dailyportalz.jp

 

最近、久しぶりに飛行機に乗った。

最後に飛行機に乗ったのが感染症が猛威を振るう前だったので3年以上ぶりくらいになる。

 

久しぶりに飛行機に乗ると、どんなテンションで乗ればいいのかや何を準備しておけばいいのかどのくらいお腹を満たして飛行機に乗るとちょどいいのかなど、それまではなんとなく行えていたことを意識的に行わなければならなくて少し緊張したのが良くなかったのか、尋常じゃなく飛行機の中で具合が悪くなった。

もどすほどではないけど、「うわー、具合わるー」という気分になった。

 

具合が悪くなってくると変な思考回路が繋がって、全く関係ないのに胃の噴門部という名前がさらに具合の悪さを助長するように感じられるようになってくる。

入り口なのに噴門部とはいかに。何が噴くんだよ、と。

噴門という単語が噴き出すというイメージを惹起させ、更に具合を悪く指せる。

 

そんな飛行機の思い出を一番上の記事を読んで思い出した。

引用スタイル分からん

文献管理ソフトのMendeleyの説明に

Mendeleyは、7,000以上の引用スタイルに対応しています。

Mendeley_citation_style

と書いてある。

めちゃくちゃある。

しかしこれだけ膨大な引用スタイルに対応しているMendeleyでもカバーしていない引用スタイルもあるので、世の中にはまさに数え切れないだけの引用スタイルが存在するはず。

 

しかし、違う引用スタイでも似たようなスタイルがある。

例えばほぼAPAスタイルやろー、と思って準備すると微妙にちがってスタイル調整しなければならないのは、すごく面倒くさい。

(もちろんMendeleyなどの文献管理ソフトでカバーしているメジャーなジャーナルに投稿しろというのは分かる。)

 

特定のジャーナルにあるバリエーション
これほど数多くの参照スタイルがあるにもかかわらず、一部のジャーナルでは、独自の参照スタイルを好んで使用します。こういった方式のほとんどは100%独自のものではありません。ほとんどは人気のスタイルに、いくつかの変更を加えたものです。

https://www.aje.com/jp/arc/how-to-use-et-al-in-academic-papers/

 

メジャーなジャーナルのスタイルのままじゃだめなの?

 

ジャーナルオレオレスタイルにするの面倒くさいんだけど。

 

編集側も新しいメディアが出たときに引用スタイル策定するのめんどくさくないの?ほぼメジャーなスタイルのコピペだろうけど。

コピペだったらそもそも基のメジャーなジャーナルのスタイルのままでいいじゃん。

 

引用スタイルは文献の筆者名や年数などなにを大事だと思っているかによってスタイルの方針が違うようなので、独自スタイルにもそれなりに意図があってのものかも知れないが、概ね既存のメジャーなスタイルでカバーできるんじゃないだろうか。

もしかしたら昔は、独自の引用スタイルはメジャーなジャーナルの引用スタイルを含めた投稿規定等に対応するコストを下げるという投稿者(筆者)に優しいスタイルだったのかもしれないが、今となっては文献管理ソフトで設定するのが面倒なスタイルは投稿者(筆者)のコストを大きく上げることになっていると思う。

編集側においても、新しいメディア(ウェブなど)が出てきたときに引用スタイルを策定する必要があるというコストがあるので、美味しいところはなさそうだと思うが……。

 

ひねくれた見方をすると、編集がいらない独自性を出そうとした結果、独自の引用スタイルや投稿規定を設けているんじゃないかと思えてくる。

もう少し編集におもねった見方ならば、独自スタイルにすることで別のジャーナルでリジェクトされたものをそのまま投稿するという行為を避けることを狙っている可能性もあるのでは、と思う。

後者は結構いい線行っているかもしれないが、

 もう一つの例として、 Transactions of the ASABE などのジャーナルを制作しているAmerican Society of Agricultural and Biological Engineers (ASABE)では、APA Style 6th Editionのバリエーションを使用しています。なぜでしょう?私にはいっこうに分かりません。しかし、もしあなたがこのジャーナルに投稿するのであれば、彼らのガイドラインに従わなければなりません。 こういったややこしいガイドラインを満足させる論文にするためには、幾度となくこの作業をしてきたプロの科学編集者に依頼するのもひとつの方法です。私たちは、これらのスタイルのほんの小さな違いを見抜くことに長けています。なぜなら、それが私たちプロの仕事のうちだからです。

https://www.aje.com/jp/arc/how-to-use-et-al-in-academic-papers/

と資金があれば外注できるので、富めるものはますます富み、貧しきものは持っているものまで取り去られる構図になっていると思う。

 

すでに今ある独自スタイルからメジャーなスタイルに変更することは編集側には作業や意思統一などの手間が増えインセンティブは乏しいかもしれないが、メジャーなスタイルに統合して欲しいと個人的には思う。

 

編集側にとっても一度、これからはメジャーなスタイルでいきます、といえば、今後新たな引用に足るメディアが出現したときにスタイルどうするか策定せずとも、メジャーなスタイルを策定している編集が頑張って考えてくれればばそれに乗っかることもできてお得かもしれない。

これに関しては、メジャーなスタイルを策定しているところにフリーライドするな的な話もあるかもしれないが、上記にあるように結局メジャーなスタイルの翻案になるなら大差ないのではないかと思う。

買ってよかったもの:サイドゴアブーツ

冬の始まりに廉価なサイドゴアブーツを買った。

 

大変良い。

 

前のシーズンまで履いていた冬靴のアッパーの一部が裂けてしまい、買い換えなければなと思って買いに行ったら、入り口付近で積まれてセールされていたものを買った。

 

脱ぎ履きが楽で良い。

 

特に子供と出かけるときにパタパタと準備をして行くときや保育園の送り迎えのときに、靴紐を解いたり結んだりしなくてもいいのが大変いい。

 

前のシーズンまでは紐のブーツを履いていたので、なおのことこのことが強く実感される。

 

ただし、紐で最後の調整ができる紐靴とはことなり、ややカパカパと歩いていると遊びがあるのは否めない。

 

0.5cm刻みのひとつ下のサイズでは小さかったので、靴のサイズ自体はいい塩梅のはずなのでフィットについては中敷きでちょっと調整して様子見。

 

厚めの百均の中敷きを敷いて少し強めにフィットさせると、ちょっときつめかも知れないけど問題なく歩ける。

 

足首周りの遊びは調整できないのでやや履き口あたりが寒いが、しかし脱ぎ履きが楽なのはいい。

 

ブーツは脱ぎ履きしにくいという今までの経験をいい意味で否定してくれていい。

 

そして廉価なのもいい。

 

数年前まで自分の観測できる範囲ではサイドゴアブーツは割といい値段のクラスだった気がしたが、入り口付近に積まれてセールになるレベルの廉価なのはいい。

 

高いと冬靴のくせに雪の日に履くのがためらわれるが、廉価なのはいい。

 

夏靴もそうだが、コロナになって雑踏の中に入っていくことも程ないが、雑踏の中でふまれる可能性もあるし、冬靴はその宿命から必ず汚れるのだから、「この値段なら雪道あるいて濡れてもまぁいいかな」と思える靴が日常使いといしては個人的にはいいと思う。

サ終してしまうラピスリライツのゲームについて

来月末でサ終してしまうラピスリライツについて、取止めもない雑感を書いていく。

サ終が発表されたときに思うところがあったが少しモヤモヤした気持ちが大きかったので、少し落ち着いた今書いてみる。

別に良し悪しを書きたい訳じゃないく、ただただ雑感を書いて、結局はゲームがサ終してしまうのが残念でならないということを書いている。

ただただ、自分のもやった気持ちを書いて気持ちを落ち着けている。

 

www.lapisrelights.com

 

2020年にアニメが放映されたときに見て、「いいアニメだなぁ」と思った。

折しもコロナ禍で閉塞感を感じている中で、基本的には誰も不幸にならない(途中退場しない)話の作りがとても良かった。

登場人物の特に主人公として描かれるティアラの成長も良かったし周りとの関係性の成長も見られてよかった。

決してすごい成長や変化というわけではないけど少しずつ変化していくのがよかった。

各話でアニメの主人公であるティアラのグループを含めた6組を紹介しつつ、無理なく世界観の説明をしながら、それでいて起承転結を持っていて見ていて飽きなかったし、ソシャゲありきというよりもちゃんとアニメで完結されるように作られているのが良かった。

絵もキレイだったし、絵の演技も演出もよかった。

もちろん声もよかった。

アニメ中の楽曲も良かった。

歌詞もよかった。

特にティアラの独唱から始まるA.R.I.A.がよかった。

オープニングの冒頭、全員が前に手を組んで目だけがそれぞれのキャラクターの色でそれ以外がグレーで描かれ順に出てくるシーンから世界から色づくというのが歌詞や曲の広がりにマッチしていてとても良かった。

手の組み方もキャラクター性を表している組み方で良かった。

全体的に丁寧に作られたアニメですごく良かった。

 

アニメ中で流れない各グループのYou Tubeにアップロードされている公式の楽曲を聴いてもとても良かった。

また、You Tubeで動画を検索するとラピスリライツのアニメ放映よりも前のラピスリライツとしての企画の初期から声優陣がリアルライブを重ねていた様子が公式動画で見ることができ、当時のことは知らないが、丁寧にコンテンツを育てようとしていた様子が見て取られ、少しずつ思い入れが募っていった。

ライブ映像やその前後のコメントでは若手がその時の持つ輝きが感じられて、更に勝手に思い入れが募っていった。

 

なんだか今後の広がりを感じるコンテンツで追いかけていきたいなと思わされた。

 

しかし、アニメ放映当時から大きな不安を感じるところもあった。

最も大きなところとしては、ラピスリライツがソシャゲありき(と思っている)のコンテンツなのに、アニメ放映中にソシャゲのサービス開始に至らなかった点が不安だった。

しかも、アニメ放送終了直後から数ヶ月の間にサービス開始に至るならまだわかるが、サービス開始まで1年以上もかかってしまっていたのは、正直大丈夫かなと思っていた。

途中で開発元が変わったらしいことなどのゴタゴタががあったことも不安を助長させた。

それでも、サービス開始に至ったときには安心したし、声優陣の発表を聞いたときには「よかったなぁ」と素直に思った。

長く付き合っている人(生き残り)がいるコンテンツなのでまぁなんとかやっていけるだろうとか、コンテンツはいいのでなんとかなるだろうとか、そんなふうに思っていた。

 

公開された日からコツコツゲームもやった。

CGのクオリティはまぁまぁ良かったし、バグもあったが操作性も悪いというほどのものではなかった。

ゲーム性は、特につまらないと感じるところもなかったが、それほど苦痛を感じるものでもなかった。

基本的にフルボイスなのも良かった。

キャラの声を聞きたくてやっているところはあった。

 

ただの立ち絵じゃなくCGが動くのもよかった。

ただ少しパターンが少ないかもと思わなくもなかった。

 

ただ、ストーリの部分が微妙だった。

アニメ(や漫画)と異なり、異世界転生した男性の「先生」が主人公として学院で職を得て落ちこぼれクラスの担任となって少女たちと関わっていく構造なのは、予め公式からの情報で知っていた。

しかし、ラピスリライツの知名度を大きく上げたと思うアニメは女子生徒のみで緩い百合的な感じがあって、アニメしか知らないところではその世界に男性が入ることに違和感を感じている人がいて、そういう声があることも知っていたし、たしかにアニメを見たあとだと違和感が(かなり)あった。

しかも、しょうがない部分はあると思うが、男性である主人公に対して登場人物が全体的にチョロインなのがちょっと微妙な気がした。

もちろん説明もあって、主人公と親密度が上がると魔女としての能力が向上するという設定もあって、少女たちは好むと好まざるとにかかわらず主人公との関わりが発生し、主人公と関わる中で惹かれていくという設定になっていた。

ただ、そこで惹かれるまでに至る流れがチョロインだったと感じた。

また、サービス開始までに、かなりの時間を要したのだから、コンテンツを広く周知するに至ったアニメの影響も鑑みて、緩い百合の世界を維持するために、性別を開始時点で選択できるようにしたり、そもそも男性という設定をなくしたり主人公の性別を有耶無耶にしても良かったのではないかと思った。

もちろん男性だからドギマギするという話もあるにはあるが、少女たちの成長に著しくそのことが重要性を持っているかというと、コンテンツとしては少女同士の掛け合いや絡み合いの中で話を展開していくことに無理はなかったと思うし、あまり先生がしゃしゃって出ていかなくても良かったのではないかと思う。

あるいは性別選択できるようにして、会話を中性的にして、勝手にユーザー側にシスターフッド的な緩い百合を妄想させるのもコンテンツとしては悪くない方向性ではなかったのかと思う。

 

あと、オープニングアニメも、演出としてはアニメのほうが好みだった。

ユニット推しなのはわかるが、アニメのオープニングを見たあとだと、うーんって感じだった。

 

あと個人的には特に大変と思わなかったが、イベント等のノルマが重たいという意見もあったようだ。

コツコツやってる勢からかするとそんなに重たいと思わなかったが、ライトにやっているとキャラの成長が追いつかずに大変な場面もありそうで、そこで脱落しそうだとは思った。

 

あとはガチャが少し渋いというか、結局キャラを揃えてなんぼという面があるゲームにも関わらず、なかなかガチャが渋かった。

キャラを着せ替えるにあたってもキャラ専用の衣装はガチャを回してキャラ獲得していく必要があるのだけれど、それもそれで渋めだったので、着せ替えゲームとしても微妙だった。

加えて、用意されている衣装がやや微妙だった。

CGはそんなに悪くないが、もう少し可愛い衣装だったり、世界観に合わせた衣装とかがあったほうが良かったんじゃないかと思う。

また、アニメの話をしてしまうが、アニメ中に出てきた衣装を採用したほうが良かったんじゃないだろうかと思う。

たとえば、これは任意にきせかえができる衣装ではないがストーリ中に時折出てくるレッスン着と思われる体育着も、アニメの体育や野外活動のときに来ていた服のほうが良かったし、制服以外の普段着もアニメのほうが良かったし、最後の方に出てきたティアラのドレス姿は良かったのでこれも実装してほしかった。

あと、着せ替えゲーム的に言えば、アニメ中、ティアラはドレス姿になるときに髪をアップにしていて大変良かったのでゲームでも衣装に合わせて髪型が変わるとか、あるいは髪型だけ選べるとかいうシステムが着せ替えゲームとしては欲しかった。

だって自分好みの髪型した推しみたいじゃん。

 

ゲームがアニメの持つラピスリライツ像を超えてこられなかったのが残念だったなと思った。

 

で、そんな風に思っているうちにゲームの中でのイベントが前にやったイベントのやり直しになったりして、あれあれ調子悪いのかなと思っているうちにサ終になってしまった。

終盤はサ終間近かなと感じさせる雰囲気があったので、「えぇ!?」みたいな意外な驚きというよりも「おもったよりも早かったな」という思いと「なんとか持ち直せなかったのか」「やむを得なかったな」という思いがないまぜになる複雑な気持ちになった。

 

ゲームが公開されるまでの宣伝用の動画や、ゲームが公開されてからの宣伝も頑張っていたのになぁと思ったが……。

 

コンテンツそのものは一応いくつのものメディアで紡がれる物語(各メディアが平行世界)ということになっているのでゲームが終わったからと言ってコンテンツが終了するとも限らないが、辛そうだなぁと思った。

アニメは良かったがゲームがサ終しての2期は……うーん、個人的にはあったら嬉しいが。

コンテンツ好きだったのに残念だな、と思った。

今まで緩みきって楽しんでいたものが思いがけない展開になったらもう二度と同じように楽しむことができなくなる話

去る7月16日にはじめてのおつかいを録画して、1~2週間後くらいにボーっとしながらみた(以下番組批判ではない)。

www.ntv.co.jp

番組のフォーマットははじめてのおつかいにでる子どもが涙あり笑いありでおつかいを完遂する様子を微笑ましく見るというもので、基本的には完全に心が緩みきった状態でぼーっと見るたぐいのもので、子どもの成長を見て感動してみたり微笑ましく思ったりする。

子どもを一人で番組スタッフの監視下とはいえ、場合によっては少し無理矢理におつかいにだすというのは、欧米基準でいうと児童虐待といわれるきらいもあるが、諸外国に比べて治安が良いとされる日本におけるおつかいというのはかつてはある種の非形式的な通過儀礼で様相としては「つりばしわたれ」(長崎源之助)の吊り橋を渡るに近いものがあるのではないかと思う。

この構造自体は別に今回の話題ではない。

ここ数年はアーカイブス的に過去のおつかいを再生し、その後数年後の現在の大人になった姿を見せるというものが何本かある。

これをぼーっと見ていたら最後のおつかいが明らかに映像の画質からして過去のアーカイブスで、「あー、これはいつものやつで、最後に今はどうなってるっていう話だな」と思いながらみてたわけです。

で、アーカイブスの部分が終わったらいつもは「あれから〇〇年後……」というテロップが出たあと、成長した本人がでて「いやー、あのときは~」とか話したり近況を報告してくれるんだぁ、と思っていたら「あれから……」と出て「ん、いつもと違う?」と思ってたら数年おきにおつかいにでた子ども成長録が流れて、最後におつかいにでた女の子のひとりが突然の事故で亡くなられたというナレーションと三回忌を終えて集まっている家族の様子が映し出されたわけです。

長い番組ですし、歴代おつかいに出た子どもが大人になる間にそういうこともありえるということはそうなんでしょう、というのは分かってはいても、眼前に突きつけられると衝撃だった。

はじめてのおつかいを見ているとき、おつかいをしている様子をみると子どもに対して軽い思い入れというか、赤の他人ではないなにか、おつかいを見守る近所のおばちゃんおじちゃん的な気分でみてるようなものだった。

だから、小さい頃から知っている近所の子どもの訃報に触れた衝撃のようなものを感じて、悲しい気持ちになった。

しかも、そういう番組ではないと思いこんでいたから衝撃は尚のこと。少し割り引いていっても、かなり衝撃的だった。

そして、次にはじめてのおつかいが放映されるとき、今までのようにぼーっと見るようなことはできなそうな気持ちになった。

同じような企画が何度もあるとは思えないが、今まで0%だった警戒心が0に会議理なく違いが確実に0ではないレベルで「もしかして?」と警戒してしまうところはあると思う。

 

これに似た感じ昔にも感じたことがあったな、と思ったら松来未祐氏の訃報のブログに触れたときにも同じような気持ちを感じたことを思い出した。

blog.excite.co.jp

最近はあまり見かけないが2010年代前後は本人の公式ブログ等で「ご報告」とか「お知らせ」などのタイトルで、内容をぼやかしながら読者に「結婚か!?」などとヤキモキさせながら(釣り的に)実際に読んでみると舞台や新盤の報告だったり、本当に結婚だったりという報告することがあった。

最近だとTwitterでの報告が多いのか、タイトルで釣るというということは減ったような気がする。そのことはまずおいておいて。

ブログで「皆様へ」という私はやや釣り的と感じさせられたタイトルに、「結婚か!?」とやや期待を膨らませながら。完全に緩みきった気持ちで開いたら、訃報で、言葉にできない悲しみを感じたことを思い出した。

松来未祐氏の話題として「結婚したい」という話が度々あり、この少し前のブログでも病気療養が終わったら婚活的なの頑張るんだというのがあったし(松来未祐氏の経緯として結婚できな自分をときに自虐的に話す様子などからファン層の一部(多く?)に本人が望むような幸せになってもらいたかったというのもあったと思う)、記憶だけで書いているので間違いもあるかもしれないが病気療養をしている、というブログ記事はあってもその病気がどの程深刻なものなのかということは触れられることはなく、ラジオなどで見せる明るい松来未祐氏の延長でなんとなく読者に今の辛さを感じさせることのない内容が多かったと思う。

少なくとも訃報の後に知ることになった稀疾患で、大変な治療をしているということは全く感じさせなかった。

そういった、ブログの雰囲気もあって、かなり緩みきった、むしろ良い話題が提供されるだろうなどと楽観的な状態で触れた訃報だったので悲しみはひとしおだった。

はてぶのトップコメントの

皆様へ | 松来未祐日記

タイトルを見て、俺がちょっと頬を緩めながらクリックしたのは、こんな報告を読むためじゃない。残念でならない。

2015/11/02 13:53

b.hatena.ne.jp

はその時の気持ちをよく代弁してくれていたと思う。

それ以降、ブログ等の「ご報告」や「お知らせ」などのタイトルがあると、少しだけ「ん?」と思うようになってしまった。

その件以降さまざまなブログを見てもちろん、「ご報告」や「お知らせ」などのタイトルを見たときに「何かな?」などというワクワク気持ちもなくなった訳では無いが、「ひょっとして……」などという一抹の不安を抱えている自分がいる。

訃報のお知らせの確率はその他のお知らせに比べると絶対数は少ない(と思う)が、0に近い確率でもそれでも0ではないという気持ちが拭えない。

もう二度と(というほどではないけど)、この訃報に触れる前の気持ちには戻れないんだなぁ。と感じた。

 

例えば、ニュースなんかでたまに有名人の訃報が流れるが、ニュースを見るときにそんな気持ちになることはない。

コロナが最初に流行った頃、罹患した有名人の訃報が何本か報道されたときに、次は誰が?という不安はあったけど、それでもニュースにふれるときに同じような気持ちになったことはないと思う。

もともとニュースを見るときに警戒心0で見るということがそもそもないというのもあるかもしれない。

 

結局なにかというと、今まで緩みきって楽しんでいたものが思いがけない展開になったらもう二度と同じように楽しむことができなくなるというのを改めて実感したという話。

研究がやめられない!

注意:これはたちの悪いパロディで全部または一部は虚構です。謹んでお詫び申し上げます。

 

5300編。

これは私がこの1年間に読んだ文献の数です。

調べてみると平均6ページとしたとき、すべてを普通紙(普通紙の厚みを0.09mmとしたとき)に片面印刷するとSHIBUYA109の看板の「1」の長さ(約3.1m)に匹敵しました(2862mm)。

もちろん研究は人の書いた論文を読むだけではなく自分自身の研究をし論文にまとめる作業があります。

およそ十数年にわたって続けている研究。

年々、作業が増え、毎日進捗がないと気がすまないようになっていました。

「これはちょっと異常なのではないか?」

そう思って調べてみたところ、あることばに行き着きました。

「研究依存症」。

研究することを愛してやまない研究者のみなさん、心当たりはありませんか?

 

ルーティー

午前4時40分。

私は毎朝この時間に目を覚ます。

朝起きてまず水をのみ、PCが立ち上がるのを待っている間に血糖値を上げるためにチョコレートを2粒食べる。

そして、眠い目をこすりながらメールチェックをし返信をし、すぐに返信できないメールはフラグとリマインドを立ててる。

そのあとにメジャージャーナルのウェブサイトを巡回し、新着を確認する。これはと思うものはMendeleyにインポートしてあとで精読することにする。

時間があれば、Mendeleyにインポートした文献を読みメモを書いておく。

読んだ文献で気になったキーワードをPubMedやSCOPUS等に入力してみる。

そしてできれば自分の研究に手を付ける。

これが私のモーニングルーティンです。

 

この習慣は、盆暮れ正月、前日の遅くまで研究していても、眠り足りなくてもどんなに疲れていても、欠かすことができません。

文献読みたくないな、という日も正直あります。

それでもなぜ続けているかというと、文献を読むことができない日は「1日文献を読まないだけで置いていかれるかもしれない」「今取り組んでいる内容がすでにどこかで発表されてしまっているのではないか」という違和感、そして自分を甘やかしてしまったという劣等感を抱えて1日を過ごすことになるからです。

「こんな生活を続けていて大丈夫なのか?ちょっと異常なんじゃないか?」

そう思うきっかけになったのは、最近感じるようになった違和感からです。

これまで毎日研究していても平気だったのに、数ヶ月前から頭の疲れが抜けにくくなり、インプットの量とアウトプットの質が落ち込み、なにより研究していても以前と同じ「楽しい」と感じることが少なくなってしまったのです。

 

そして何より深刻だと感じてたのは、休息が必要だと頭では理解しているのに、インプットとアウトプットの量を減らしたりする決断が自分ではどうしてもできなかったことです。

 

研究し始めたきっかけは学部卒論

 

そもそも私が研究するようになったのは学部3年のときです。

当時の私は自他ともに認める劣等生で、劣等をからかう同級生を見返してやろうと一念発起し、研究室配属とともに研究を始めたのです。

 

研究を始めた当初、研究室では論文抄読会での読み込みや進捗の報告、学会発表の予定など同じ研究室に配属された同級生のうちでも最も劣っていました。

それでも諦めずに3ヶ月ほど人一倍朝早く研究室にきて、文献を読み、研究手法を学び、自分の研究に取り組むことで、誰も知らないことを知る喜びを知り、半年経過する頃には研究室内でも学部生の中でも存在感のある一人となることができました。

 

そうして私は、研究することの楽しさに目覚めたのです。

 

大学院に入ると、さらに自分を追い込もうと、学外の若手研究会にも所属し、研究会内での勉強会を含めて活動的に取り組みました。

学位を取る頃には自分なりには一定の業績を挙げられているのではないかと思っていました。

もちろん、インパクトや本数ではないまだ誰もしらないことを知る喜びは続いていました。

 

ポスドクになってからは、院生時代になかった雑務もあり、インプット、アウトプットの量は院生時代と比べると少し落ちましたが、それでも同じレベルを維持するように努めていました。

 

しかし、数年前、久しぶりに院生時代の仲間に連絡を取ったらポスドクをやめて、民間企業勤めになっていたと聞きました。また、その人づてに聞くと良くしていた仲間のうちテニュアトラックを得ていたのはわずか一人だと言うことを知ったのです。

それ以降、たとえ食事や睡眠の時間を削っても研究をする、文献を読む生活が続いているのです。

 

ひょっとして、「研究依存」?

その結果、冒頭で述べたような不安を感じるようになってしまった私は、良い解決策はないかと調べ始めました。

調べてすぐに目にしたのが「研究依存」ということばです。

果たして自分が該当するのかどうかを確認しようと、研究者のメンタルヘルスサポートに携わっている千葉電波大大学のケン・ナイン医師のもとを訪れました。

 

(筆者)

「研究依存とはどういう状態にとことを指すのでしょうか」

(ケン・ナイン医師)

「過度な研究によって日常生活に影響を及ぼしているかどうかが重要な基準になります。ただし人によって研究量が違うので、明確な診断基準はないんです」

 

  • 研究の依存度を図るチェックシート
    • 研究は私の人生で最も大切なものである
    • 私の運動量について家族やパートナーの間で対立が生じたことがある
    • 私は気分転換のために研究をしている
    • 時間の経過とともに1日に行う研究量を増やしている
    • 研究を休むと気分が悪くなったりイライラしたりする
    • 研究量を減らしても、また始めるといつも以前と同じように研究してしまう

 

そこで手渡されたのは、依存の度合いを測るチェックシートです。

6つの質問に対し、「とてもそう思わない」の1点から「とてもそう思う」の5点まで、5段階の評価で回答し、その点数をポイント化して、依存の度合いを数値化します。

「依存症の傾向が見られる」基準となるラインは30点中24点。

回答の結果、私は28点。依存症の傾向が強く見られるという結果でした。
依存症とは、日々の生活や健康、大切な人間関係や仕事などに影響をきたしているにも関わらず、特定の物質や行動をやめたくてもやめられない状態を指します。

お酒や薬物、ギャンブルなど依存の対象はさまざまですが、研究は、続けることが悪いことではなく、むしろ「良いこと」「偉いこと」として捉えられ、依存症の対象とくくってしまうことに違和感を覚える人もいるかもしれません。

 

そこで、ほかの研究者たちの声を聞いてみることにしました。

深夜2時に煌々と明かりの灯る研究室にお邪魔し、院生に話を聞くことができました。

 

(博士前記課程2年 研究太郎さん)

「自分にとっては歯磨きのような感覚で、『文献を読まない日を2日続けない』という自分のルールがあります。その分、体調が悪かったり寝不足なときでも無理して文献を読んでしまうことがありますね。

ただ逆に体調不良で起きられなくてもごろ寝PCで文献を読む方法を編み出したので特に問題はありませんでした。」

 

(博士後期課程3年 リサ・チー)

「どうしてもアウトプットの量を求めてしまっています。私用があるのに少し時間があるとおもって研究に取り組んで、予定ギリギリになったりとか、研究しすぎて帰るのを忘れてアパートのポストがいっぱいになって溢れていたこともありました。

公共料金の払込書がその中に紛れていたので、払込を忘れてしまい電気が止まったことがあるのですが、そもそもアパートに居ることがないので全く困りませんでした。」

 

研究することに熱中するあまり、日常生活や健康に影響が出てしまったという失敗談を明かしてくれた二人。周りにも同様の経験をしたことがあるという研究者はたくさんいると教えてくれました。

私だけでなく他の研究者も、研究しすぎによる不安や悩みを抱えているようです。

私は、研究依存について、本格的に取材を進めることにしましtあ。

 

そもそも「研究依存」って?

 

「研究依存」を詳しく知るために話を聞いたのが、研究心理学が専門で、脳科学のアプローチから研究を進めている、千葉電波大大学のリー・サーチ教授です。

リー教授によると、「研究依存」と呼ばれる症状には、決まった定義はないとのことですが、海外の論文では「規則正しい不規則な研究生活における心理学的・心理学的本質を持つアディクション嗜癖・依存)で、研究をしない場合には24時間から36時間後に離脱症状(不安感、罪悪感、イライラ感など)が生じることから特徴づけられる」と説明されています。

ギャンブルや買い物など、特定の行動に依存する症例は他にもありますが、研究を含む文化的依存に特有の特徴があるとリー教授は指摘します。

 

(リー教授)
「お酒や薬物などと違うのは、『やりたい』というよりも『やらなければ』という強迫的な側面です。そして研究が過剰に行われることによって、人間関係や仕事に支障をきたすほどのネガティブな結果を生み出し、さらに健康管理を度外視して行うことがあるため、精神の不安定や体調不良に繋がってしまう恐れもあります」


「研究依存」にあたる人がどれくらい存在するかについて正確なデータはありませんが、「研究依存」に該当する人は「日常的に研究を行っている人のうちおよそ90%」とする研究報告が、複数あるといいます。

80万人あまりとされている日本の現在の研究者人口で考えると、推計で72万人が「研究依存」に該当する可能性があると考えられるのです。

 

そして、研究依存を引き起こす背景には2つの要因が考えられるといいます。

1つは研究活動(投稿論文のアクセプトなど)によって、多幸感が生み出されるカテコールアミン(ドーパミンノルアドレナリン、アドレナリンと言った神経伝達物質の総称)が脳内に分泌されるため、依存へとつながっていくこと。

もう一つは、研究ができないとネガティブな気持ちになって離脱症状が起きてしまうため、その気持を抑えるために研究をやめることができなくなるということです。

 

研究をやめると24時間~36時間後に離脱症状と言われる不安感、イライラ感、気が休まらないことなどが生ずることもあると言います。

日常的に研究をしている人が突然研究をやめるとどうなるのかを調べるため、今回、深夜まで研究に取り組んでいる大学院生にに協力してもらい、脳波を使った実験を行いました。

最初に脳波を測定したあと、3日間研究を中止し、『研究を毎日続けている状態の脳波』と『研究を3日間やめたあとの状態の脳波』を比較したのです。

すると、不安に思っていたり、イライラしたりする時に現れるという「エラー関連陰性電位」といわれる波形が運動をやめたあとに大きくなっていました。

ただし、実験2日目の実験後に指導教員からのメールを受信した大学院生は血相を変えて研究室に帰ってしまい3日目の実験には来てくれませんでした。


(リー教授)
「強度の高い研究習慣がある人は、研究を停止することで一過性にネガティブな感情や心理的な反応があることが見て取れます」

(実験に協力してくれた大学院生)
「1日目から研究の進捗がないことに焦りを感じていました。2日目には指導教員からの『進捗どう?』のメールで焦りがピークになり、研究を再開してしまいました。やっぱり研究がある上で自分ができているんだなと改めて思いました。」

 

リー教授は、特に強迫傾向が強く、完璧主義の強い性格の持ち主は研究を止めることができない状態に陥りやすいと考えられているといいます。

ただ、研究依存のメカニズムが、強迫傾向などの性格によるものか、ドーパミンといった神経伝達物質の作用によるものか、それとも両者の相互作用に基づくものなのか、はっきりとは解明されていません。

この症状に関する研究は世界的にまだ調査や研究が十分に進んでいないのです。

 

(リー教授)
「研究依存は分かっていないことがまだまだたくさんあり、明確な診断基準もありません。研究依存の研究をするために他人の研究を中断させる倫理的な問題もあり、研究をやめられない症状の人を集めて実験や研究を行うのがとても難しく、データが集まりにくいんです。明確な治療法があるわけではありませんが、予防法としては、実行可能な範囲での研究計画を立てて、その計画を超えてしまっていないかをモニタリングし、計画を無理なく実行していくことが重要だと思います。」

 

解決の糸口を求めて

 

症状を改善させるためには、何をすればいいのか…。

私の研究依存度を確認してくれたケン医師に助言を得ることにしました。

そこでまず求められたのは、1週間分のタイムスケジュールを記入することです。

 

記入しながら、「そういえば、同じ24時間を生きているはずなのに、あの人は信じられないスピードでインプットとアウトプットをしているな……。こんなに朝早くほぼ毎日文献を漁っているのに恥ずかしいな……。」と思わずにはいられませんでした。

記入し終えたシートを受け取ったケン医師は、驚いた様子もなく、穏やかな表情で「早朝に研究活動を始めることが習慣化しているんですね」といった上で、

 

  1. 1日の研究量を少なくする日を作り、全体的な量を減らすこと、
  2. ほとんど毎日続けていた、研究以外の研究室業務の時間を削ること

 

以上の2つの改善案を提示してくれました。

「研究する日を削れ!」と言われることを覚悟していた私は思わず聞き返してしました。

 

(筆者)
「それだけでいいんですか?」

(ケン医師)
「そんなに多い研究量ではないと感じました。」

 

「これくらいならできる、助かった!」

このときの私はそう軽く考えていました。

 

なかなか計画通りには…

 

ケン医師の助言に従い、自分の研究スケジュールを見直しました。

これまでは1日およそ20時間を研究に割くという計画だったのを、1日は18時間程度に抑えるという計画を立てました。

結論から言うと、この計画は失敗に終わりました。

まず研究量を抑える日を決めるにあたり、「調子が良くない日に研究量を減らせばいいかな」と軽く考えていました。

ある日、研究に取り組み始めてから調子が上がらないことを自覚した私は「よし、きょうは研究時間を短くしよう!」と心に決めます。

が、そのあとすぐに「もう研究し始めているのだから、きりの良いところまでやってからにするか?」という考えがよぎり、結局その思いを払拭できず、いつも通りの研究量をやってしまったのです。

この反省から、翌日はあらかじめいつもより少ない研究量とすることとしましたが、その分、研究におけるクリティカルだったりシビアな箇所に取り組んでしまい、いつもとさほど変わらない疲労感をため込んでしまいました。

また研究のスパンについても、休養を5時間以上決めていたにもかかわらず、「もう少しできりの良いところまで進みそうだからこのままやろうか」とか「もう少しで論文投稿できそうだから休養は先延ばししても大丈夫だろう」など理由づけをして、結局いつも通り研究してしまったのです。

0から1を生み出すのが難しいのと同じように、10から9に減らすのも簡単ではないと痛感しました。

 

失敗の中で得た学び

 

2週間後、再びケン先生のもとを訪れました。

 

(筆者)
「努力をしたんですが、なかなか研究量を減らせなくて、すいません…」

(ケン医師)
「いえいえ。できなかったらできなかったで全然OKで、できなかった時にどういう風に改善できるかとか、できなかったことの原因を一緒に考えるっていうことを繰り返していくことが大切なんですよ」


優しいことばに励まされ、この2週間にできたこと、できなかったことを正直に報告しました。

その中で、改善策の②として提案された「研究以外の研究室業務を減らすこと」については、研究室業務をやらない日を作ることができていることに、ケン医師は着目し、私に優しく語りかけました。

 

(ケン医師)
「できたこともこの2週間であったと思うんです。上手に調整できているんだってことに自信を持って下さい」

(筆者)
「研究室業務については後輩との業務割合を見直しました。一部学部生に流してみました。」

(ケン医師)
「減らす経験をしたという自信を、いざ研究の調整の時にも生かすことができるようになればいい。できることをクリアしながら、時間をかけて行動変容につなげることが大切です」


必ずしも計画通りにいかなかったこの2週間。

しかし、自覚していなかった意識や行動の変化をケン医師は気付かせてくれました。

 

研究をこれからも楽しむためには


1度習慣化してしまうと簡単には変えられないことを身を持って学んだ私は、反省の意味も込めて、「研究依存」に陥らないために必要なことを最後に聞いてみました。

 

(ケン医師)
「自分のライフスタイルを定期的に見つめ直すことが大事です。自分の研究習慣について第三者にアドバイスをもらったり、どんなコメントをされるか想像したりするだけでもいい。研究することは楽しいことだということを忘れずに、適度にバランスをとって研究し続けてもらえればと思います」


取材を続けて1か月。

自分が「研究依存」であることを自覚し、「完治」を目指しましたが、やはり一朝一夕では難しく、今もこの「症状」と向き合っています。

しかし、研究し続けることで抱えていた漠然とした不安は消え、自分にあった研究スタイルをいつか実現させるという決意に変わりました。

私の願いはただ1つ。

テニュアポストがほしい!」

 

参考文献(というかパロディもと)

www3.nhk.or.jp

 

 

学術集会の演題発表の成功条件ってなんだ?

学術集会での演題発表(いわゆる学会発表)の成功条件ってなんだろうって思った話。

 

学会での演題発表を終えたあとに、妻に「うまくいった?」って聞かれて「頭を低くして嵐が過ぎ去るのを待つだけだから」と言ったら「どいういうこと」って言われた。

 

たしかによく考えると学会発表というタスクにおいて失敗条件というのは思いつく限りいっぱいある。

いっぱいありすぎて挙げきれない。

 

かたや成功条件、つまりうまくいったっていう条件っていうとぱっとでてこない。

 

妻にどういう条件ならうまくできたかって聞くと、「コンクールとかじゃない、音楽の発表会とかだったら楽しめたら成功かな」的な話をしていた。

 

楽しめたら……。

 

学会発表を楽しむ……。

 

難しそう。

 

最終的に論文化するのを目指すなら最後に論文採択されたときに成果が結実して一連のプロセスが成功とみなせるかもしれない。

大変だった、あれやこれもいい思い出だったな的な。

 

ただ、とりあえず学会発表して論文化を目指すところまではいかない(いけない)ものだと、学会発表が最終成果物になるのでここが最終評価になると、「いやー、発表してよかったなぁ」と思って終わりたいが、そもそもの成功条件が不明確なのでそういう評価が難しそうだと思った。

 

確かに楽しめたら成功という評価は一つの評価軸としてあり、だが……。

いろいろ難しそう。