indenkun2の日記

日々のとりとめのない雑感を言語化

今まで緩みきって楽しんでいたものが思いがけない展開になったらもう二度と同じように楽しむことができなくなる話

去る7月16日にはじめてのおつかいを録画して、1~2週間後くらいにボーっとしながらみた(以下番組批判ではない)。

www.ntv.co.jp

番組のフォーマットははじめてのおつかいにでる子どもが涙あり笑いありでおつかいを完遂する様子を微笑ましく見るというもので、基本的には完全に心が緩みきった状態でぼーっと見るたぐいのもので、子どもの成長を見て感動してみたり微笑ましく思ったりする。

子どもを一人で番組スタッフの監視下とはいえ、場合によっては少し無理矢理におつかいにだすというのは、欧米基準でいうと児童虐待といわれるきらいもあるが、諸外国に比べて治安が良いとされる日本におけるおつかいというのはかつてはある種の非形式的な通過儀礼で様相としては「つりばしわたれ」(長崎源之助)の吊り橋を渡るに近いものがあるのではないかと思う。

この構造自体は別に今回の話題ではない。

ここ数年はアーカイブス的に過去のおつかいを再生し、その後数年後の現在の大人になった姿を見せるというものが何本かある。

これをぼーっと見ていたら最後のおつかいが明らかに映像の画質からして過去のアーカイブスで、「あー、これはいつものやつで、最後に今はどうなってるっていう話だな」と思いながらみてたわけです。

で、アーカイブスの部分が終わったらいつもは「あれから〇〇年後……」というテロップが出たあと、成長した本人がでて「いやー、あのときは~」とか話したり近況を報告してくれるんだぁ、と思っていたら「あれから……」と出て「ん、いつもと違う?」と思ってたら数年おきにおつかいにでた子ども成長録が流れて、最後におつかいにでた女の子のひとりが突然の事故で亡くなられたというナレーションと三回忌を終えて集まっている家族の様子が映し出されたわけです。

長い番組ですし、歴代おつかいに出た子どもが大人になる間にそういうこともありえるということはそうなんでしょう、というのは分かってはいても、眼前に突きつけられると衝撃だった。

はじめてのおつかいを見ているとき、おつかいをしている様子をみると子どもに対して軽い思い入れというか、赤の他人ではないなにか、おつかいを見守る近所のおばちゃんおじちゃん的な気分でみてるようなものだった。

だから、小さい頃から知っている近所の子どもの訃報に触れた衝撃のようなものを感じて、悲しい気持ちになった。

しかも、そういう番組ではないと思いこんでいたから衝撃は尚のこと。少し割り引いていっても、かなり衝撃的だった。

そして、次にはじめてのおつかいが放映されるとき、今までのようにぼーっと見るようなことはできなそうな気持ちになった。

同じような企画が何度もあるとは思えないが、今まで0%だった警戒心が0に会議理なく違いが確実に0ではないレベルで「もしかして?」と警戒してしまうところはあると思う。

 

これに似た感じ昔にも感じたことがあったな、と思ったら松来未祐氏の訃報のブログに触れたときにも同じような気持ちを感じたことを思い出した。

blog.excite.co.jp

最近はあまり見かけないが2010年代前後は本人の公式ブログ等で「ご報告」とか「お知らせ」などのタイトルで、内容をぼやかしながら読者に「結婚か!?」などとヤキモキさせながら(釣り的に)実際に読んでみると舞台や新盤の報告だったり、本当に結婚だったりという報告することがあった。

最近だとTwitterでの報告が多いのか、タイトルで釣るというということは減ったような気がする。そのことはまずおいておいて。

ブログで「皆様へ」という私はやや釣り的と感じさせられたタイトルに、「結婚か!?」とやや期待を膨らませながら。完全に緩みきった気持ちで開いたら、訃報で、言葉にできない悲しみを感じたことを思い出した。

松来未祐氏の話題として「結婚したい」という話が度々あり、この少し前のブログでも病気療養が終わったら婚活的なの頑張るんだというのがあったし(松来未祐氏の経緯として結婚できな自分をときに自虐的に話す様子などからファン層の一部(多く?)に本人が望むような幸せになってもらいたかったというのもあったと思う)、記憶だけで書いているので間違いもあるかもしれないが病気療養をしている、というブログ記事はあってもその病気がどの程深刻なものなのかということは触れられることはなく、ラジオなどで見せる明るい松来未祐氏の延長でなんとなく読者に今の辛さを感じさせることのない内容が多かったと思う。

少なくとも訃報の後に知ることになった稀疾患で、大変な治療をしているということは全く感じさせなかった。

そういった、ブログの雰囲気もあって、かなり緩みきった、むしろ良い話題が提供されるだろうなどと楽観的な状態で触れた訃報だったので悲しみはひとしおだった。

はてぶのトップコメントの

皆様へ | 松来未祐日記

タイトルを見て、俺がちょっと頬を緩めながらクリックしたのは、こんな報告を読むためじゃない。残念でならない。

2015/11/02 13:53

b.hatena.ne.jp

はその時の気持ちをよく代弁してくれていたと思う。

それ以降、ブログ等の「ご報告」や「お知らせ」などのタイトルがあると、少しだけ「ん?」と思うようになってしまった。

その件以降さまざまなブログを見てもちろん、「ご報告」や「お知らせ」などのタイトルを見たときに「何かな?」などというワクワク気持ちもなくなった訳では無いが、「ひょっとして……」などという一抹の不安を抱えている自分がいる。

訃報のお知らせの確率はその他のお知らせに比べると絶対数は少ない(と思う)が、0に近い確率でもそれでも0ではないという気持ちが拭えない。

もう二度と(というほどではないけど)、この訃報に触れる前の気持ちには戻れないんだなぁ。と感じた。

 

例えば、ニュースなんかでたまに有名人の訃報が流れるが、ニュースを見るときにそんな気持ちになることはない。

コロナが最初に流行った頃、罹患した有名人の訃報が何本か報道されたときに、次は誰が?という不安はあったけど、それでもニュースにふれるときに同じような気持ちになったことはないと思う。

もともとニュースを見るときに警戒心0で見るということがそもそもないというのもあるかもしれない。

 

結局なにかというと、今まで緩みきって楽しんでいたものが思いがけない展開になったらもう二度と同じように楽しむことができなくなるというのを改めて実感したという話。